無住心言術道場第4回

無住心言術道場第4回のテーマは「ビデオ・ゲームの教育効果と、ゲーム依存症からの脱却」です。今回も難問ですが。針谷忠道、今回も、突貫します。
 以前は、日本ではゲーム機と呼ばれる、ゲーム・コンソールは、インターネットに接続していませんでした。私は、スマホのゲーム・アプリも含めて、インターネット接続したゲームを操作した経験が無い昔の人間です。
 私は過去に、ビデオ・ゲームを作りたかった時期がありました。それで、ゲーム・コンソールを買って、ゲームの勉強をしていました。確かに楽しいシナリオのゲームは、名作や、隠れた名作などがありました。ポップ・アートとしての現代美術の作品で在るビデオ・ゲームを、娯楽として楽しみ、同時にゲーム作りの勉強をしていました。
 ですがビデオ・ゲームは、3D化がハードウェアの性能向上で、ある時期から開始されました。この時期から、既に、個人でゲームを作ることは、ほぼ不可能な、集団芸術に移行したことを理解し、困っていました。
 では、本題に入りましょう。
 ビデオ・ゲームの教育効果とは、デジタル・デバイスのソフトウェア、今風に言えばアプリや、アプリケーション・ソフトウェアの使い方に慣れる教育効果が在ります。
 今の若い人たちが、ゲームをスマホのゲーム・アプリで、インターネットを介して行う場合。新しいゲーム・アプリの、操作能力を得ているはずです。これは、説明書が無い、ゲーム・アプリでも。今の若い人たちは、ある程度、容易に操作ができます。
 これは、若い世代だけで無く、ゲーマーと呼ばれる、ビデオ・ゲームが趣味の中高年世代でも同様だと考えられます。統計を取れば実際の数字やパーセンテージが出ます。
 勉強と、スマホのゲーム・アプリの両立は、特に若い世代では難しい問題です。現在では精神疾患として社会的に認知される、ゲーム依存症に簡単に移行する危険が在ります。
 ですが、教育効果としては、将来、様々なアプリケーション・ソフトウェアをPCで操作する能力、の獲得に繋がる可能性があります。この場合には、直感的なインターフェイスに適応する能力をビデオ・ゲームで得る事になります。
 これ以上になると、娯楽の範囲内で留めなければ、ゲーム依存症へ移行していきます。
 趣味がビデオ・ゲームで在ることは、現在の世界では不自然ではありません。ですが、ゲーム依存症になると、良くないと考えられます。
 問題は、ビデオ・ゲームの教育効果は、暗黙知で、現在は伝わっていると考えられます。
 教育学では、ヒドゥン・カリキュラムと呼びます。
 ビデオ・ゲームを行うことで、職業で使うアプリや、将来的には、オフィス系のソフトウェアなどに適応しやすい、能力を得る事は、現在の若い世代では、ある程度、直感的に理解している人達も多いと考えられます。
 ですが、最初から、ビデオ・ゲームの教育効果を、「アプリや、PCのビジネス・ソフトの操作能力」と定義して理解した方が判りやすいと考えられます。
 正確には、コンピュータ科学では、グラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)と呼ばれる操作方法の、操作能力が、スマホのゲーム・アプリや、ゲーム・コンソールと呼ばれるゲーム機、PCゲームで、養成された状態が、教育効果です。
 ですが、ゲーム依存症に、移行する場合が問題です。
 ビデオ・ゲームの、教育効果以上の役割は、娯楽や趣味としてのビデオ・ゲームです。ですが、この先に、実社会との交信が途絶える、ゲーム依存症の問題があります。
 以前のゲーム・コンソールと呼ばれるゲーム機は、インターネットに接続していませんでした。ですが、現在は、スマホのゲーム・アプリのようにインターネットに接続して、社会学的な社会や交流場所を、ゲーム・アプリの中で、匿名、不匿名を問わずに形成します。
 一見すると、社会と繋がっているように見えます。
 ですが、現実の、自身の所属する、社会とは違う事に、気がつく必要が在ると思います。
 前提として、
 1、自身の所属する社会の方が優先度が高い。
 2、ソーシャル・ゲームの社交場として機能は、自身の所属する社会よりも優先度が低い。
 この、単純な前提を理解しないと、ゲーム依存症になると考えられます。
 ですが、ビデオ・ゲームを楽しみながら、自分で、ゲームを作る事を考えた場合。どのように同じ物語の展開でも、変化をするかなどを考える場合。単純に1方向からのマスメディア的な、ゲームを与えられて、楽しむ立場から、創造的な立場に変わります。
 社会学の表現では、「批判」と言う言葉を使いますが。
 この「批判」のルーツは、イマニュエル・カントの「純粋理性批判」がルーツのはずです。
 ゲームを楽しむ場合のコツは、ただ単純に楽しまずに。どのように作っているのかなどの、「作り手側」の視点を持つことで、コンピュータのプログラミング言語の勉強などへの知的な好奇心の発展が在ります。
 ソーシャル・ゲームのアプリの仕組みを考えた場合。スマートフォンをブラックボックスの様に、中身が判らない道具では無く、コンピュータ科学や、インターネットの技術、半導体などで動いている事を考えていくと、ビデオ・ゲームを、マスメディア的に一方通行で受け取る側の立場から、ソフトウェアや、ハードウェアの技術を理解していく方向へと繋がっていきます。
 どこまで、勉強をするのかは、個人の自由ですが。
 生成AIや、検索エンジンなどを、紙製の本と併用して、私は勉強しています。
 私はビデオ・ゲームが作りたくて、プラグラミング言語の勉強を開始しています。
 ビデオ・ゲームの世界観なども、人文科学的な面が在ります。モンスターの名前が、ユダヤ・キリスト教由来や、ギリシャ神話由来や、仏教の由来などの、世界の神話や伝承などから、拝借していることが多いことに気がつくはずです。
 私の場合、ソーシャル・ゲームに興味がない理由は。小説の延長線上にあった、物語重視の昔のRPGやSRPGとは、異なることを理解しているからです。ソーシャル・ゲームの方がヒット作が出るとは限らない、昔の物語重視のRPGやSRPGよりも、経済面では優れていることは、私は経済学的に理解しています。
 集団芸術としての物語重視の過去のビデオ・ゲームですが。ソーシャル・ゲームでは、物語の重要度が下がるはずです。その意味では、物語を小説のように楽しむことが、レベル上げの煩雑さは在っても、インターネット接続していない、昔のビデオ・ゲームでは出来たはずです。現在の、コミュニケーションの場所を提供する意味が強い、ソーシャル・ゲームとは、ゲームのジャンルが違うと考えられます。
 「ゲームの教育効果」を、「将来実生活で使う、スマートフォンのアプリや、PCのビジネス・ソフトの操作能力を、汎用性がある程度効く形で得る能力」と定義する事で、ビデオ・ゲームを禁止している家庭も、ビデオ・ゲームのコンソールと呼ばれる、ゲーム機を子弟に与えない理由の意味を、客観的に理解し、子弟に説明できると考えられます。
 ゲーム機を与えなくても、オフィス系のPCのソフトウェアを先に、子弟が使い方を習う事で、アプリやPCのビジネス・ソフトの操作能力の汎用性の獲得を目指す選択肢も在ります。オフィス系のPCのソフトウェアなどのトレーニングを習い事の一つと考えることで教育産業の一環として考える事も可能です。
 ゲーム・コンソールと呼ばれるゲーム機を子弟に与えない自由も存在すると考えられます。

 今回も生成AIのCopilotを使いましたが、イマニュエル・カントの哲学史での位置づけに大きな間違いがありましたので記述しておきます。
 
 


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