無住心言術道場第1回「伝統的な宗教の、現在の世界での課題」
無住心言術道場、第一回目のテーマは、伝統的な宗教の問題から開始します。いきなり重いテーマですが。キリスト教徒の針谷忠道、頑張ります。
まず、ユダヤ・キリスト教の永遠の概念です。
この永遠の概念は、日本の高校の数学では∞、無限として習います。
無限とは終わりのない数字です。
そして主の概念が在ります。ユダヤ・キリスト教では、終わりのない、永遠の存在である、主に帰依します。
ユダヤ・キリスト教では、永遠の命であるプラスの無限。永遠の死である地獄行きのマイナスの無限と考えられます。
ここで、座標の原点となる、インドの伝統的な宗教が考え出した、0の概念が有ります。
日本では、インド発祥の仏教は、国家鎮護の仏教として受け入れられ好意的ですが、オウムというテロリスト集団化したカルト宗教団体が、ヒンドゥー教をベースにしていた問題があるため。日本では、現在のインドのヒンドゥー教には批判的な目が向けられています。
数学が得意なインド人は、0の概念を考え出しました。
インドのヒンドゥー教では、0イコール消滅と考える安易な見方も考えられます。
多神教のヒンドゥー教では、最高神の一人ブラフマーの時間という考え方があります。
このビシュヌの時間の下位概念のブラフマーの時間は、非常に長いものですが、ブラフマーの時間は、0である終わりに到達します。
ですが、ユダヤ・キリスト教の考え方では、永遠の概念が存在します。
永遠とは、∞という数字です。
この数字は、破綻はしません。∞に1を加えた数はは、やはり∞です。
頭のおかしい幼稚な人が、自分は∞の一億乗の存在だ。と喚いても、∞の一億乗イコール∞です。
唯一絶対の主に帰依する、ユダヤ・キリスト教の、考え方とは、現在風に解釈すると、このような考え形に妥当性があると考えられます。
では、∞の概念を明確に持たない、インド発祥の仏教や、ヒンドゥー教が劣っているのか。そう考えれば、宗教戦争につながります。
インド発祥のヒンドゥー教には、梵我一如の概念が有ります。
梵とは宇宙の本質です。
主に帰依する、ユダヤ・キリスト教の主と、宇宙の本質である梵は、同じように考えれば、宗教戦争は発生しません。
旧約聖書の箴言では、最初の方に「主を恐れ敬うことは知識のはじめである」と書かれています。
人類は、現在の自然科学の、分子生物学的には、真核生物として、進化してきています。
ですが、キリスト教の文化圏では、進化論を教えない場合も選択肢として存在すると考えられます。
旧約聖書の箴言で「主を恐れ敬うことは知識のはじめである」と、書かれている事は重要です。
人間だけが、永遠の命に入ることが出来るのは、人文科学のソシュール記号論で、語られる、言語(=記号)を操る能力、ランガージュを持っているからと考えることが可能です。
「主を恐れ敬うことは知識のはじめである」。主を恐れ敬うことが出来るのは、人類だけです。
新訳聖書のヨハネ福音書の最初に「初めに言が在った、言は神と共に在った。言は神で在った。この言は、初めに神と共にあった」
と、書かれています。
仏教の一般的、民間的な解釈では人間は輪廻転生、もしくはヒンドゥー教ではサンサーラで、生まれる。
その人生の、次の人生で、梵我一如へ向かうべく、現在の人生を真面目に生きていく。という考え方をします。
人間だけが、梵我一如へ向かえると考えます。
ですが最近は、日本のポップカルチャーでは、安易な異世界転生物のコンテンツが多いのが現状です。
このような現状の中で、一人一人の個人が良い人生を生きるためには、教育が重要です。
人間は人生で生きている間、成長することを望むと考えられます。
この成長とは、教育が下支えを行います。
今回は論じませんが、「無住心言術道場」では、教育の「勉強のテクニック」の話題も取り上げます。宿題をしても成績が上がらない問題などの、具体的な丸暗記と呼ばれる記憶法は、心理学の短期記憶を中期記憶、そして、長期記憶に固定していく技術の話題です。
私は、日本人で、両親が双方、無神論、無宗教、無信仰の家庭に育っています。ですが、日本の新興宗教の教祖の稚拙な、小賢しい、安っぽい、理論から逃れるために、回心しました。
キリスト教の福音書を読んでイエス・キリストの言葉に救われ私は回心しました。
「無住心言術道場」第1回です。誤字脱字などは、後で修正します。